コロナ禍でできること

先月、息子の保育園の卒業式がありました。例年は、保育園が執り行う「卒園式」とは別に保護者たちからの催しがあり、そのための予算も確保されていて、児童館などを貸し切ってみんなでお弁当を食べながら舞台を設けて保護者たちで踊りを披露したりがあったそうです。
もちろん、今年は一緒にご飯を食べるなんてできません。
僭越ながら、その保護者側の企画の立案・実施の代表をさせてもらいました。たまたま、保育園の先生と昨年度卒園した保護者さんが「今年はどうするの?」と立ち話をしているところに居合わせたしまったのがきっかけです。今年度は役回りで何も関わる気が無かっただけに、はじめは困ったなと思いましたが、引き受けたからには「やったろ」と思いまして、一緒にやってくれそうなクラスメイトのママさんたちをかき集め、昨年10月に発足。
3月末の卒園式までにコロナの感染状況は一進一退で、自粛は当然のような風潮は続き、2月には2回目の緊急事態宣言と、保育の現場ではイベントは軒並み中止や短縮。毎日のようにこのアイデアで良いのだろうか?できるだろうか?とみんなで悩みながら進めました。

進めていく中で、やはりよく聞こえてきたのが
「今年の子たちは本当にかわいそう」
でした。

一緒に係をしてくれているママさんたちはみんな思っていても口には出さなかったけれど、きっと不安だったと思います。だって私も不安でしたから。
しかし、「かわいそう」なのかな???
かわいそうにしているのは「かわいそう」と言ってしまう大人なのではないのか。
自分の知っている卒園式や催し、経験したことを基準にすれば、それが楽しかった思い出であればなおさらできないことは「かわいそう」に思います。そして、どうなるかわからないので何もできなかったら「かわいそう」です。
私は、この「かわいそう」を払拭したくなりました。これまでにない、コロナ禍だからできる楽しい卒園式をしてあげれば「かわいそう」と言わないのでくれるのではないかと。
卒園人数が多く、保護者数も合わせたら園のホールではできないという保育園側の意向もあり、当日は終始屋外での開催で、さらに雨が降り出す最悪なコンディションでした。それでも、短時間の中でもちょっと特別な催しになりました。

親がチャレンジしていたら、きっと子どもはその背中を見てくれています。
かわいそうと言う前にコロナ禍だったからできるいつもと違うことを想像した方が楽しいはず。それがたとえ計画通りうまくいかなかったとしても、チャレンジしたことの方がずっと尊いと思うのです。